僕はこんなことを考えている はてな出張版

運営しているエッセイサイトのはてな出張版です。軽い読み物なのでお茶請け程度にいかがでしょうか?

映画評:ステップフォード・ワイフ

支配するということは、結局壊すことで、分かり合うということのほうがいくらか建設的である

movie.walkerplus.com

休日になると比較的子どもが多い所によく出かける。
そういう所は当然のことながら、子どもがはしゃいで相当にうるさい。
うるさいだけならいいのだが、子どもはよく奇声を上げる。
しかも何の前触れも泣く奇声を上げるので、瞬間殺意を覚えたりする。
最初は迷惑だなあ、躾くらいしとけよ、と思うのだが、幾日か重ねると、どうやら奇声は躾とは関係なく発するらしいことが分かり、徐々に腹も立たなくなってくる。
らしいと言ったのは、特に奇声を上げる子に何故奇声を上げるのかを聞いたことがないからで、しかし、こうランダムに奇声を上げる子をみかけると、どうやら子どもは何らかの理由で奇声を上げるものらしい。

奇声を上げたり、急に物を投げてみたりと、子どもは得てして、理解できない行動をするものではあるが、こういうものは日本では虫が起こすものだと考えられていた時代があった。
特に乳幼児の異常行動については、東洋医学的なアプローチでは、疳の虫という虫の仕業ということで、その治療法も変わっている。
粗塩で手を揉み乾いた布巾などでキレイに塩を拭き取る。
そうすると指先にほのかに白い繊維状のものが出てくるそうで、それが疳の虫というわけである。
どうして指から出るのかは不明だが、僕も実際にやってみたが、何となくそんなものがあるような気がする程度だった。
昔の人の想像力のたくましさを感じる話ではあるが、欧米ではこの癇癪を脳科学の分野で解決をしようとした時代があった。

20世紀の中頃に、ロイコトームという長いメス上のもので前頭葉の一部を切除することで、荒っぽい性格の人が穏やかになるという、精神外科手術が流行した。
ロボトミー手術と呼ばれるその技術は、激越性うつなどの難治性の精神疾患患者に施術され、一時は効果的な手術とされるが、人格変貌などの重大な副作用が確認され、また倫理的な指摘もあったのか一気に廃れていく。
よくわからない精神疾患に対する対処が、漢方に由来するアジアとロボトミーに発展する欧米と比べると、何となくだが、何事にも間接的にかかわりを持とうとする東洋人と、直接的なかかわりを持とうとする欧米人の考え方の違いのような気がして興味深い。
それにしてもメス一本で人格が変えられるのは、人間が大きな肉人形の中の小さな脳が作り出した世界に踊っていることがよく分かり、人類の根源的な生存目的に疑問を持ってしまう。
「われ思う故に我あり」もメス一本で思わない人に変えられてしまうのだから、心底ゾッとする話である。

人の精神世界は複雑で、脳の一部を削ったからいいというものでも、なんだかわからぬ虫を取ってしまえば治るというものでもない。
無論、近い将来、脳科学の進歩で脳機能の全てが理解され、脳を操作することで生命を支配する時代が来るかもしれないが、今は時間をかけて、観察することでそのデータを取り、パターンを体系化することで、対処方法を見つけるしかない。
奇声を上げる子どもたちに対しては、ただ気にしないことしか、今の僕には術が無いように、頭ごなしに押さえつけてやめさせることは、何か別のものを抑制している気がして、なんとなくダメな気がしてしまう。

「ステップフォード・ワイフ」という映画を観ている時に、ロボトミー手術が頭を掠めた。
実際の映画のオチは、超カルト的だったのだが、映画の中に香る人間の隷属化を匂わせる内容は、どこかロボトミー手術に似た寒々しいもので、観ている最中に何度も嫌悪感に襲われてしまった。
映画自体に嫌悪感があるのは、人間のエゴスティックがむき出しになっている点で、映画に横たわる支配的な考えは、そのまま欧米人の支配の歴史に符号する。
歴史を盾に差別をするつもりはないが、欧米人的な考えの根本に弱いものへの徹底的な弾圧があり、他国を支配する歴史が少ない日本人には、不得意なテーマなのかもしれない。
しかし、なんとか我慢して映画を観ているうちに、少しずつこの映画には支配するものについての嫌悪感や、揶揄を作り手が持っているような気がしてくる。
映画の最後を観れば言いたいことは何となくわかるとは思うのだが、その顕著な例として、余りにもお粗末すぎるラストシーンがある。
いくら男性の思うままの女性がいいと思っても、そんなことするか?というオチなのである。

物語は同じ様なひらひらを付けたいかにもお姫さまのような出で立ちの妻たちが、スーパーで楚々として買い物をするシーンで終わる。
そのカットは随分とバカバカしく、際立って違和感がある。
その分別のない結末が、逆に支配する愚かさをあざ笑うように写り、何となく救われた感じがした。

支配するということは、結局壊すことで、分かり合うということのほうがいくらか建設的である。
しかし、分かり合うには時間がかかる。
かかりすぎる。
だから支配もせず、分かり合うこともせず、放棄してしまう。
放棄することは何も産まない。
しかし、実際の所僕らは、多くの物事を、上手くいかないことを放棄してしまっていないだろうか?

zatta.sub.jp