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僕はこんなことを考えている はてな出張版

運営しているエッセイサイトのはてな出張版です。軽い読み物なのでお茶請け程度にいかがでしょうか?

映画評:エクス・マキナ

この映画のようなグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである

movie.walkerplus.com

僕はこう見えて(どう見えて?)プログラマの端くれである。
どれくらい端くれかというと、ジャイアンがリサイタルを開くことで自分は歌手であると言っている程度の端くれである。
そんな僕でも知るテストにチューリングテストなるものがある。
今回の映画評の劇中にも登場する名前なのだが、簡単に書くと、コンピューターに人工的な知能があるかどうかの実験のことらしいのだが、昨今流行りのAI(人工知能:artificial intelligence)の精度見極めにも役立つ理論として、最近耳にする機会も増えている。
このテストの面白いのは、このテストの発案者である数学者チューリングは1950年にこの実験を提唱している点にある。
まだ日本は復興に必死な頃にもうこんな先を見越した考えがあったのだから、日本が戦争に負けてしまうわけである。

最近はAIの発達が凄いらしい。
僕の勤務先にもペッパー君という、AIを持つロボ君がいるのだが、フォルムも若干手塚先生が描いた未来予想図の中のロボ感があって、個人的には好きである。
身近な人工知能としてはスマホがある。
iOSの僕はsiriには大変お世話になっているのだが、最近では電化製品にもAI技術があって、お掃除ロボから洗濯機、冷蔵庫にも導入され始めている。
そのうち生活のあらゆるものが勝手に考え始めて、自分は何もしなくてもよいなんて時代が来るかもしれないのだが、しかし、よくよく考えてみると、ペッパー君が会話をするのは、プログラムに書かれた質問を返しているだけだし、学習ロボットに関しても、ある種のパターンを体系化して、それをシステマティックに出しているだけなので、
実は知能があると勘違いしているのは受け手側、すなわち人間だそう思っているだけなのかもしれない。
本来知能とは、自らで考え判断する能力なので、与えられた解をもった機械が、その解をランダムに表現するものを知能と呼んでいいのか?と考えていくと、疑問は残ってしまう。
とは言えそもそもの人間が持つ知能も、脳に詰め込んだ知識の塊であり、人間はその引き出しが若干緩いだけで、コンピュータが導き出す方法とあまり遜色がない。
もっと言うと知能というものは、自身が感じ入るものではなく、人が判断して「あっ!この人知能がある」と思うだけで、そういった意味でチューリングテストは、プログラミングされた機械の受け答えを、どれだけ人間っぽく行うことができるのかを人間か図るテストなので、結構正しいテストなのかもしれない。

AIは今後間違いなく生活の中に溶け込んでいくと考えられる。
便利さを追求すれば、人間様が何もせずに、物自体がいろんなことをしてくれればうれしいわけなので、人はどんどん働き場所を失っていくだろう。
ひょっとしたら数百年後には「ガリバー旅行記」のラピュータ国のように、地上にいる人は、空に住む人にくっついて、歩くのを支持したり、座ることを教えたりするように、機械が人間の行動を支持する時代が来るのかもしれない。
人は考えるのに忙しくて、話すことも少なく、動くこともせず、代わりに機械がすべての問題を解決してくれる。
数個先の未来の扉を開くとそんな世界が待っているのかもしれない。

ということで今回の映画は「エクスマキナ」である。
この映画はよくあるロボット暴走もの映画であるのだが、切ないのは機械が愛を利用することである。
愛は人間が持ち得る最大のエゴイズムなのだが、この物語の人工知能は他人への愛は持ち得ないが、自分への愛は持っているようで、偽りの愛を武器に自由を得ようと試みる。
無論幾多のプログラムが行動させた結果という前置きがあるのだが、人間の心に入り込むほどの愛情をAIが表現できるか?というテーマの元、昔の美人局でもしないような純情ロボを演じる姿が、「このAI大した事ねえな」と思うところなのだが、しかし、実際にハニートラップ専用の機械なんかを作り出す日が来て、それこそすべての人間心理を突いたプログラムがこなせる恋愛マシーンが生まれたら、しょうもない人生を送ってきた僕としては、地下アイドルにはまる童貞おじさんくらいいちころで恋に落ちてしまうかもしれない。

しかし、実際AI化が進むと、愛をだます機械よりかは、愛を施す機械のほうが多く作られる気がする。
世の中の人間がどんどん異性と付き合うのを避けて、また核家族の結果孤独と老人が増えた今の時代にこそ、機械でもよいので愛情を欲しいという人は結構いる気がするのである。
しかし、作られた愛情は本当の愛情ではないので、今以上に人づきあいが苦手な人が増え、もっと言うと性交渉さえもできない人間が出来上がってしまうのかもしれない。
とは言え、人間の原動力の一つに間違いなくエロがあるとは思うので、そのために性交渉専用のロボ君なんかもできてしまうとは思うのだが、そうやって人間同士の関係性より、AIを介して人間生活が送られる日が必ず来るだろう。
facebookやLineなどの希薄な人間関係で実際の人づきあいをしない人の増加が、すでに未来の人間の営みが予見されているのではないかと思うのは僕だけだろうか。

ひょっとしたらAIの進化は、人間が本来持つ動物的感情を排除させ、新たな人間を作り出す一歩であり、同時に人間が人間としての感情を失ってしまうという意味において、破滅の一歩なのかもしれない。
そう考えると、未来のAI搭載ロボは、この映画のようなグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである。

 

zatta.sub.jp