僕はこんなことを考えている はてな出張版

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映画評:ビッグ・リボウスキ

こだわりはその人の精神上の交通整備なのかもしれない

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昔の新聞の投書で、何にでも名前を描くお父さんの話があった。
例えばストーブの裏とかに「〇月〇日 父35歳 母32歳 値段1万円 気温6度」みたいなことをびっしりと書くらしく、確かに全ての家電が耳なし芳一状態で落ち着かなさそうだ。
こういう人の心理はあまり良くはわからないが、一種の所有欲の表れだろうか。
名前を書く事で、動物のマーキングの様な効果を精神的に生んでいるのかもしれない。
あるいは、モノに対する愛着が人並み外れているのか、または、唯の几帳面なのか、いずれにしても一般常識的には変な行動である。

しかし、僕も人生の半ばを迎え、こういう特異なこだわりを持つ気持ちはわかるようになってきた。
昔は気にしなかった神社でのお参りの仕方とか、おみくじは必ず持ち帰るとか、小さい行動の中で妙なこだわりが頭をもたげるようになってきた。
それは人によっては、エレベーターには右足からしか乗らない、とか、白いご飯は一切食べないとか、それはただの習慣であったり、ジンクスであったりそれぞれではあるが、たいていの場合は、年を取ることでいろんなものを経験し、合っていようが間違えていようが、その経験則から導き出されたこだわりが多いように思う。
そしてそのようなこだわりは、大抵の場合周りからはうざがられ、そして滑稽なものである。

しかし、よくよく考えてみれば、冠婚葬祭など、儀式に伴うルールのほとんどが、こだわりなのではないだろうか。
例えば結婚式の祝儀の金額は奇数にするとか、七五三の年にお参りするなんかも、突き詰めれば昔の誰かの気の利いたこだわりから端を発し、それが大多数に受け入れられたから、通念として今も続いているのだろう。
宗教なんかも、教義の是非はさておき、朝には太陽の方向を向いておじぎするだの、掃除は朝にするだの、どうでもよさそうなルールが必ずいくつかあるのは、先人のこだわりに尽きるような気がする。
人間は社会性の動物なので、その社会性を保つために色んなルールを敷き、それに従うことで、個々の生活を維持させているので、こだわりが増えていくことは、それだけ生きやすさにもつながるということだろうか。
車も赤で止まるというルールに従わないと、交通は麻痺してしまう。
こだわりはその人の精神上の交通整備なのかもしれない。

映画「ビッグ・リボウスキ」の中の人物は、様々なこだわりを見せる。
玄関マットを汚されるのを嫌い、酒もホワイト・ロシアという酒しか飲まない。
ボウリングに没頭し、かかってきても出もしない、大きな携帯電話を肩に下げている。
彼らはアメリカっぽいし、限りなく能天気だ。
しかし彼らの虚勢や、滑稽なまでのこだわりは、馬鹿っぽくはあるのだが、哀愁に満ちている。
結局のところ男は、年を取るほどに社会でも家庭で必要とされず、しかしその反面、社会との関わりを持ち続けたいと思うあまり、様々なこだわりを持ち、自分はこういう人間であるということをアピールする、いわば取り残されないための防御本能なのかもしれない。
それは歪で、とりたてて評価されないものがほとんどで、そこに永遠も半ばを過ぎた男たちが枯葉となり落ちてしう前のあがきが見られ、いつか自分も行く道ではないかと、戦々恐々としてしまう。

一方で、人はこだわるからこそ、一生懸命にもなれるし、こだわるからこそ良い仕事を残すことができる。
こだわることは前向きさを生み、進歩を生み出す。
枯葉の男たちも、最後の自分の存在理由を見つけるためにも、こだわることで、社会と関わりを見出していく。
例えそれが人から見て、滑稽であったとしても、この先の道には、こだわることしか残されていないのかもしれない。
映画の中で個性的にボウリングの球を磨く二人のおっさんを観ながら、ついついため息をついてしまう。
つくづく年は取りたくないものである。

 

年取った人が書いています。でも含蓄のある言葉はあんまありません。

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