僕はこんなことを考えている はてな出張版

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映画評:紅夢

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技術が進歩することで、逆に何かを無くしていくのかもしれない

仕事でデザインをやることがあるので知ったのだが、色彩学というものがあるそうだ。
例えば何かのロゴを作るときなど、一つの色を際立たせるためにその逆の色(補色)と組み合わせるや、客の食欲を増進させるには黄系の色がいいなど、一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
見るとなるほどそういうものかね、と一応関心はするのだが、それを生かしてチラシを作成してみたりするが、あまり効果的なものは作れない。本ホームページのそれぞれのロゴを見ていただいたらわかると思うが、
本当に大したものは作れないのである。
やはり作る人間の技量の問題が大きいのだろうが、こういうものを知っているうえで、何かこう創造的なものを作るとより素晴らしいモノが仕上がるのではないか、なんてことを思ったりもする。
例えばキュビズムで有名なピカソは、一見落書きのような絵を書くが、青年期に書いたものは写実的なものも多く、9歳の頃に書いた絵などは、当たり前だが今の僕より断然に上手い。
やはりしっかりとした素養があってこその、亜流のデザインなんだろうなあなんてことを思っていたら、テレビで西洋画に詳しいどこかの先生が、印象派の大半は絵が上手くないものだとおっしゃっていたのを聞いて、これも一理あるのかもと思った。
確かに絵を志すのは何も絵が上手だからとは決まってはいない。
何か訴えたい表現があり、たまたま絵を選んだだけかもしれないし、生まれながらに知能障害で、しかし色彩センスだけは抜群だったため描き始めたのかもしれない。
または、毎日の食い扶持に困って、しょうがない絵でも描くかと画家になった人もいるのかもしれない。
絵が上手い人しか絵をかけないのならば、世の中の絵画はここまで多様化していないだろうし、絵画自身がもっと小さな箱で収まるような、小さな世界で終わってしまっているだろう。
思うにそれは、西原理恵子さんが現れて、あらこんな絵で漫画家になるなら私でもなれるかしらと登場した、倉田真由美さんやさくらももこさんと同じなのかもしれない。(これは推測です)
みんなが手塚先生だったら、漫画もつまらないだろう。手塚先生はどれも面白いですが。
物事に何か形を当てはめてしまうと、表現はそこで終わってしまう。
どこかに雑さがあるからこそ、人はそれに同意し、共感を持ってくれるのかもしれない。
尤も、僕のようなリーマンが造る商業的な作成物には全く無関係の話ではありますが…。

僕は映画で芸術を感じることはないのだが、映像で時たま「おおっ」と思う時がある。
そして「映画」「芸術」で僕の頭をググるとこの「紅夢」という映画がヒットする。
僕はこの映画ほど「紅」が生えた映画はかつて見たことが無く、全体を包むどんよりとした物語を、色の支配によって艶やかに、そして情熱的に描き出したものはついぞ見たことがなかった。
内容は中国の小さな社会の、一夫多妻の古めかしい慣習の話で、それは纏足の風習に似て差別の臭気がするものではあるのだが、内容を覆い隠すその映像美と主演のコン・リーの艶やかさが強烈に印象に残り、その映像の基盤を成す「紅」の色の力に圧倒された思い出があった。
監督のチャン・イーモウは、その後も映画の中で色を際立てせる映画を作っているが、この映画ほど彩りと世界観があったものはなかったのではないだろうか。
まさに映像による色が、物語を支配した代表例ではないだろうか。

そんな僕の中では大絶賛の映画なのだが、最近何となく昔のビデオを処分していたら、この映画を発見し、何気なく観て驚いた。
ビデオという事で保存状態も悪いのもあったのだろうが、画像が事の他悪く、こんなに紅が素晴らしいと書いた割に、大した迫力もなかった。要は当時は凄い映像技術でこの素晴らしい「紅」を実現させたのだろうが、今となっては家庭用のホームビデオでも同じくらいのポテンシャルで出来てしまう、ということだろうか。
それだけ現在の映像技術が、映像の質を上げたということだろうか。
芸術性に必要な雑さが除かれた結果、全てが無機質になっていくような気がして、何となくだが技術が進歩することで、逆に何かを無くしていくのかもしれないと感じた。
「紅夢」はできればデジタルリマスターズ版とかで見直したいなあと思った。