僕はこんなことを考えている はてな出張版

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映画評:マイレフトフット

どんな生きる道にもおかしさや、悲しさや、苦しみや、幸せはある

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僕は生まれてから22才まで大阪にいたせいか、他の都道府県の方よりは、変な人に慣れている。
例えば街を歩いていて突然奇声を上げる人や、昼間から酒を飲んで与太りながら何かブツブツ言っているおっさんとか、まあ、普通では警察でも呼ばれそうな御仁に、何だか慣れている。
家族で大型店何かに買い物に出かけても、極稀にそういう類の人がいたりしても、何をやってくれるんだろうとワクワクして、つい立ち止まって観てしまう。
悪い癖だなあとは思うのだが、突然ナイフを振り回すわけでもなければ、見ている分には何かと楽しかったりする。
そんな性格が災いして、大阪に居を構えていた頃は、良く絡まれた。
夜中にうろちょろ遊び回っていたこともあるのだが、酔っぱらいや、その筋の人に絡まれることがよくあった。
冗談のような話だが、雑踏の中の駅前でじっとこちらを観ている御仁がいたので、ちらりと一瞥すると、早足で近づいてくるかと思うと、「お前何見とんねん」である。
うわあ、やだなあとは思うのだが、若さ故のなんとかでこちらも「やんのかこら」になると、まあ収集が付かない。
大抵は「お前事務所来い」的な感じになって、事務所って何やねんと思いながらも、「なんで行かなあかんねん」の水掛け論で終わるのだが、本当にシンドかった。
それから何回か他県に引っ越したが、大阪以外で理不尽に絡まれた経験は、ただの一度としてない。

まあ、こんなことを書くと、「大阪って怖い街ね」と思われるが、自分が悪いことも自覚はしている。
たぶんそういった方々は、何らかのストレスを持っていて、そのストレスを人にぶつけようとしているわけで、そこに丁度喧嘩も弱そうで、何となくトロそうな奴がこちらをニヤニヤ見ているわけなので、まあ標的にされてもしょうがない。
自分と異なるものに対し、好奇の目で接すれば、噛み付かれるのは当然のことである。
彼らは自分が社会からの異端児であることを理解しているわけで、嫌うのはそれを人に指摘される事である。

しかし、彼らは異端とはいえ、それは彼ら自身の精神の中にあって、異端かどうかは見た目ではわからない。
だから、普通に装うことは出来るし、実際ある局面では普通に装っているはずである。
しかし、社会からの色々な軋轢や、もっといえば精神的に重圧になるような出来事があって、
そのような異端的な精神にしか成り得ない事情があったとすると、気の毒な面もないわけではない。
しかし、それを好奇の目で見る時、見る側の人間は確実に相手を異端視し、時に侮蔑の念も持ち得ている。
無関心に装いながらも、多くの人々が、その異端者に対し、異端者らしい感情で接し、あるものは厄介物を見るように扱い、あるものはかかわり合いを避けて離れ、あるものは嘲笑う。
社会の中にあるこのような感情を、僕はどこかしら可笑しいと思うことがある。
それは僕がどちらにも成りうる人間だからのような気がしてならない。

「マイ・レフトフット」という映画がある。
映画の題材として難しい障がい者を描いた物語で、ともすれば奇異な作品に取られがちな作品を、 人間のあるがままの物語として綴り、世間的にも大きな賞を獲得した秀作である。
この映画はたぶん退屈な映画である。
僕の評価もまあ無理して観ることは無い映画と言う感じで、学生当時に観たときも、結構努力を要した映画だった。
しかし、僕はこのエッセイを書くにあたって、面白いと思った映画を書くのではなく、
「自分が何を考えたか」を主題にすることにした。
この映画は映画の内容云々ではなく、映画を観て随分と自分の考え方が変わった面があったため、映画の面白さはさて置いて、本エッセイの中に書く事にした。
こんなことを書くと自身の人格が疑われるのかもしれないが、「体が不自由な人にも性欲がある」と言う当たり前の事に気づかされ、自分が密かに持っていた自分と異なるものに対し、異端的な意識があることと、異端なものに対し、偏見と言ってもよいイメージを拵えていたことを思い知らされた。
極端な物言いをすれば、体が不自由な人は恋をしないし、セックスもしないと、何となくだが思っていた節があることに気づいた。
本当に馬鹿げているのだが、何故だかそう思っていた自分に驚いてしまって、以来僕はこの映画をどこか心の中に思っている。

たぶん今の僕がこの映画を見ても何も感じ入ることはないのかもしれない。
しかし、人生の中に、この時期に見ておけば良かった、と思う映画や物語なんかはある。
そのタイミングが合えば、何故か心に残る物語というものが確かにあり、それが少しずつ自分の生き方を変えて聞くことはある。
もしも映画に娯楽のみしか求めない人も、どうかどうか、いろんな物語を観てください。
そうすることで、違うものの見方が生まれることが、ひょっとしたらあるかもしれない。

僕は異端な人を観ておかしく感じる。
それは単純にその奇異さや奇抜さに対しおかしさを感じるのであって、侮蔑や嘲りではない(と思っている)。
同時に僕は道行く人々の偽善や、道化じみた言葉や、諍いやその他何やかやにおかしさを感じる。
どんな生きる道にもおかしさや、悲しさや、苦しみや、幸せはある。
本当に当たり前の話で、取るに足りないが、それに気づくのに何年もかかってしまった自分の浅ぱくさに笑うしかない。

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映画評:神様メール

きっかっけがあれば自らを変えたいと思っているという事なのかも知れない

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探していたものがなくなったときに「ないないの神様」にお願いすると探し物を見つけてくれるという話を聞いたことがある。
随分小さな願いにいちいち対応してくれるんだなあと、変な関心をしたことを覚えているのだが、この辺は西洋には無い日本の神様の寛容さともいえる。
ここでいう西洋の神様とは、所謂キリスト教イスラム教のような一神教を指すのではなく、ギリシャ神話や民族間に描かれる神のことなのだが、日本の神様は世界的に見ても珍しいくらい、数も多くいろんな神様がいらっしゃる。
例えば木や石などに宿る神様もいれば、ちょっと前に流行った歌によるとトイレにも神様はいるようだ。
紙様ではなくである。(しょうもない)

生活のいろんなところに神様がいる例としては、お地蔵さんがいらっしゃる。
今でも山道や田舎の道路のちょっとしたスペースなんかにも鎮座していらっしゃるのだが、これだけ多く点在している神様というのも、大変珍しい気がする。
お地蔵さんをもう少し詳しく書くと、お地蔵さんの正式名称は「地蔵菩薩」と言い、仏教の世界ではそこそこ偉い神様という事は、意外と知られていない。
どれくらい偉い方なのかというと、例えば仏教の世界では、人は悟りを経て仏になると如来という呼び名になる。
釈迦如来とか大日如来とかの如来である。
例えば大日如来について書くと、元は別の国の神様で(インドだったかな?)本来は概念は違うのだが、本地垂迹説(日本の神様とほかの国の神様を同一にする思想)では天照大神と同一とされたりする。
あの伊勢神宮に祀られていらっしゃる方である。
如来になるという事は、現世での修行、つまり輪廻の枠を超えることができたわけなので、かなりレベルが高い存在なのだが、菩薩はその一歩手間の存在で、人間以上仏様以下くらいだろうか。
そう聞くと一番じゃねえじゃんと思うのかもしれないが、そもそも地蔵菩薩如来と同様の存在だったのだが、自ら子どもを救うことをしなければ如来にならないと宣言した、大変心の強いありがたい存在である。
辺鄙な場所にいるからと言ってぐれも無碍にしてはいけない存在である。

逆に言えばそんな徳の高そうな方が、至る場所にいらっしゃることは、日本の神様に対する信仰の高さを思わせ、また、宗教について独特のとらえ方をしていることが分かる。
これもよく言われることだが、日本人は無宗派の人が多いといわれるのだが、外国人の方からすれば、正月だの入試だので何かと神社に行くし、節目節目にはちゃんとお参りやお祓いなどの行動をとる。
かばんや財布には、よくわからないおふだが入っているだろうし、家の前に清めの塩を置いたりもする。
夏になると神輿と呼ばれる担ぎ物をして、神輿をふりふり裸の男たちが盛り上がったりする。
土地を買ったら神主を呼んで呪文を唱えて、何やら怪しい祈りをささげるし、もう書いたらきりがないくらい、宗教ではなくて何だと思うようなことを年がら年中行っている。
つまり日本人は無宗派ではなく、日本人独特の思想の中で、いろいろな神事を知らず知らずに行っているのである。
そしてその行為には、西洋のように露骨な「神様お願い」が無く、心の中にそれぞれの神様を抱いて、「お願い」をするのである。

という事で、得意の宗教論はさておき、今回の映画は「神様メール」です。
神様がパソコンを使って人間社会のルールや、人の生き死にを決めているという、かなりトリッキーなコメディで、神様であるおやじに反発して天国を抜け出す娘という設定が、ちょうど年頃の娘を持つ僕としては、感情移入ができる内容ではあるのだが、それにしても神様が下衆い。
神様の決めたルールは、地味に人が嫌がることばかりで、自分への信仰さえもあざ笑う。
よくもまあこんなおっさんに神様などという役割を与えたものだと思た理もするのだが、ある意味ここまで神様を揶揄して大丈夫かしらと、変な心配までしてしまう。

物語の中で神様の娘は人々に余命をメールで送信するシーンがある。
楽しいのは人々が寿命を知りえた結果、今の人生に対し否定し、新たな生き方を模索し始めるところにある。
人は結局きっかっけがあれば自らを変えたいと思っているという事なのかも知れないのだが、本当は自分が生きていることについての価値を観な求めたいのかもしれないなあ、と思うわけである。
生きているという事は、自分を愛し、自分以外の人を愛すことで、生きてきた人生が自分を否定し、他人を愛さないものであれば、きっとそこには後悔が残ってしまう。

後悔しないのは難しいが、後悔しないような生き方をすることは、気持ち次第でできるのかもしれない。

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映画評:預言者

成長とは、いかに捨てるか、ということを考えることかもしれない

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大学に行くかこのまま何者かになろうかと考えて、とりあえず居酒屋で働くかと、何もないヴェイカントな生活を送っていた頃、中学校の時にやっていた部活の先輩に会って、そのまま何回か飲みに誘ってもらった。
先輩とは学年差が2年あり、僕が部活に入部した時は3年生で、理由は分からないが部活にもあまりこない人だったので、当時は名前くらいしか知らない先輩だった。
僕の中学はまあまあのヤンキー校だったこともあって、この先輩も一癖ふた癖ある噂があって、正直ビビりながらお供をしていた。
連れられる飲み屋は所謂大衆居酒屋とか、スナックのような所ばかりで、先輩はいつも酔うとカラオケでBOOWYの歌を歌うことが多く、曲がかかると虚ろな目で、ボーカルの氷室バリのハスキーボイスで歌っていた。
ある晩、酔っ払った先輩は歌の途中にトイレに立ってしまい、その後を歌わされる羽目になった。
歌は「ONLY YOU」だったと思うのだが、僕は正直BOOWYは中途半端にしか好きではなかったため、あまり歌詞を知らず、いやいや後を継いで歌っていると、店の端にいた多分店員だと思われる女性が、可愛い声ねえと、何だか艷やかな感じで話しかけてきた。
もう顔も忘れてしまって、何歳くらいの女性だったのかも覚えてはいないが、当時の僕からすればかなり年上の女性で、しかし、そんな女性に話しかけられることもバイト先以外ではあまりなかったので、とりあえず適当な相槌をしてから、歌声を聞かれているという事に対して若干の緊張をしながら歌っていた。
その後先輩はどうしたのかは覚えていないのだが、その日僕はビール瓶を床に落として割ってしまうほど酔っぱらい、その破片を片付けようとして親指の付け根を切ってしまった。
女性は僕に絆創膏と包帯を巻いてくれて、「酔ってるから血がぎょうさん出るんで、ちゃんと抑えとき」というようなことを言ってくれた。
その日は歩いて家に帰って、昼過ぎに目を覚ますと、包帯に少しだけ口紅が付いていた。
僕はその包帯を見て何だか恥ずかしい気持ちになって、直ぐにゴミ箱に捨ててしまった。

若い頃、経験もなく、考えもなく、ただ流されるように生きている頃、僕は数え切れないほどの恥ずかしい経験をした。
僕はこの夜の出来事を思い出す時、何となく恥ずかしい気持ちになる。
たった2年上の先輩に抱いていた畏れや、歌を褒められて幾分か気分が上がったことで起こした、飲みなれない酒での失態。
何の感情もない、自分より年上の女性に対して抱いたちっぽけな欲情。
そしてそう思ってしまったことへの気恥しさ。
若さ故の揺れ動く感情のようなものがリアルに思い出され、書いている今も何となくだがその青臭さに照れてしまう。
今の自分ならどうだろうかと思うのだが、そう思うこと自体ナンセンスなことも知っている。
当然だが今同じことがあっても、何も起こらないのである。
ただ、飲み屋で酒を飲んで終わり、という話なのである。

若さの特権は、何でもないことに対して、何でもないことで終わらないことではないかと思う。
今の僕は、心の中に堆く積み上げられた、沢山の恥ずかしい経験の上に成り立ち、いつかそんな時代があったことを思い出し、懐かしむことで自分があの頃とは違うことを思い知る。

映画「預言者」で主人公は、監獄の中で自分を育てたシチリアマフィアのボスを仲間に殴らせ、彼との決別をする。
やがて出所して、新しくできた自分の仲間と共に、自由への道を歩き出す姿を観ながら、漠然と自分のこれまでの成長を思った。
僕たちは成長することで、過去の恥ずかしい自分を殴り飛ばし、そして新しい自分を笑顔で迎え入れ、同時にこれからの自分がどうなるのかに思いを巡らせ、凛々しい顔つきになる。
僕は過去の気恥しさを殴り飛ばすほど、大きな存在にはなっておらず、今でもあの頃のようにウロウロと迷い、くだらない思いを抱き、惑う。
しかし当時の写真と今の自分を見比べて、ああ、少しは男の顔になったのかもしれないなあ、と思った時、幾分か前に進めている自分が確認できる。

主人公の男は、何も持たないヴェイカントな青年期である物語前半と、力を持ち、仲間たちの中でも大きな存在になっていった物語終盤と比べて見ても、その顔付きや、ツヤや、言葉遣いみたいなものが全く異なる。
この映画のように、成長することで自分を作っているあらゆるものが変わることはあるだろう。
毎日を生きていく中でそれは本当に少しずつの変化なので、なかなか変わったなあと実感することも少ないのだけれども、しかし着実に人は、日々成長をしている。

マフィアものはデ・ニーロやアル・パチーノの頃から、主人公の成長を扱うものが多い。
しかしその成長は、暴力と権力の中で生きるための変化を題材にしていることが多い。
それが一つのマフィア映画の掟みたいになって、少し捻じ曲がった自我の成長やアイデンティティの構築が描かれる。
映画「預言者」の特異性は、これまでのマフィア映画の掟に縛られているわけでも、暴力や権力があふれる物語ではない。
主人公が自らがなにものなのかという、自我の目覚めを扱った成長譚である。
そこには若さによる間違った行動や気恥しさや、真面目さが含まれる。
そしてそれら若さゆえの行動を、まるで主人公が逮捕時に持っていたガラクタを出所時に捨てたように、記憶の中に沈め、捨て去ることで次に進んでいく。
そういった意味で、成長とは、いかに捨てるか、ということを考えることかもしれない。

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映画評:エクス・マキナ

この映画のようなグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである

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僕はこう見えて(どう見えて?)プログラマの端くれである。
どれくらい端くれかというと、ジャイアンがリサイタルを開くことで自分は歌手であると言っている程度の端くれである。
そんな僕でも知るテストにチューリングテストなるものがある。
今回の映画評の劇中にも登場する名前なのだが、簡単に書くと、コンピューターに人工的な知能があるかどうかの実験のことらしいのだが、昨今流行りのAI(人工知能:artificial intelligence)の精度見極めにも役立つ理論として、最近耳にする機会も増えている。
このテストの面白いのは、このテストの発案者である数学者チューリングは1950年にこの実験を提唱している点にある。
まだ日本は復興に必死な頃にもうこんな先を見越した考えがあったのだから、日本が戦争に負けてしまうわけである。

最近はAIの発達が凄いらしい。
僕の勤務先にもペッパー君という、AIを持つロボ君がいるのだが、フォルムも若干手塚先生が描いた未来予想図の中のロボ感があって、個人的には好きである。
身近な人工知能としてはスマホがある。
iOSの僕はsiriには大変お世話になっているのだが、最近では電化製品にもAI技術があって、お掃除ロボから洗濯機、冷蔵庫にも導入され始めている。
そのうち生活のあらゆるものが勝手に考え始めて、自分は何もしなくてもよいなんて時代が来るかもしれないのだが、しかし、よくよく考えてみると、ペッパー君が会話をするのは、プログラムに書かれた質問を返しているだけだし、学習ロボットに関しても、ある種のパターンを体系化して、それをシステマティックに出しているだけなので、
実は知能があると勘違いしているのは受け手側、すなわち人間だそう思っているだけなのかもしれない。
本来知能とは、自らで考え判断する能力なので、与えられた解をもった機械が、その解をランダムに表現するものを知能と呼んでいいのか?と考えていくと、疑問は残ってしまう。
とは言えそもそもの人間が持つ知能も、脳に詰め込んだ知識の塊であり、人間はその引き出しが若干緩いだけで、コンピュータが導き出す方法とあまり遜色がない。
もっと言うと知能というものは、自身が感じ入るものではなく、人が判断して「あっ!この人知能がある」と思うだけで、そういった意味でチューリングテストは、プログラミングされた機械の受け答えを、どれだけ人間っぽく行うことができるのかを人間か図るテストなので、結構正しいテストなのかもしれない。

AIは今後間違いなく生活の中に溶け込んでいくと考えられる。
便利さを追求すれば、人間様が何もせずに、物自体がいろんなことをしてくれればうれしいわけなので、人はどんどん働き場所を失っていくだろう。
ひょっとしたら数百年後には「ガリバー旅行記」のラピュータ国のように、地上にいる人は、空に住む人にくっついて、歩くのを支持したり、座ることを教えたりするように、機械が人間の行動を支持する時代が来るのかもしれない。
人は考えるのに忙しくて、話すことも少なく、動くこともせず、代わりに機械がすべての問題を解決してくれる。
数個先の未来の扉を開くとそんな世界が待っているのかもしれない。

ということで今回の映画は「エクスマキナ」である。
この映画はよくあるロボット暴走もの映画であるのだが、切ないのは機械が愛を利用することである。
愛は人間が持ち得る最大のエゴイズムなのだが、この物語の人工知能は他人への愛は持ち得ないが、自分への愛は持っているようで、偽りの愛を武器に自由を得ようと試みる。
無論幾多のプログラムが行動させた結果という前置きがあるのだが、人間の心に入り込むほどの愛情をAIが表現できるか?というテーマの元、昔の美人局でもしないような純情ロボを演じる姿が、「このAI大した事ねえな」と思うところなのだが、しかし、実際にハニートラップ専用の機械なんかを作り出す日が来て、それこそすべての人間心理を突いたプログラムがこなせる恋愛マシーンが生まれたら、しょうもない人生を送ってきた僕としては、地下アイドルにはまる童貞おじさんくらいいちころで恋に落ちてしまうかもしれない。

しかし、実際AI化が進むと、愛をだます機械よりかは、愛を施す機械のほうが多く作られる気がする。
世の中の人間がどんどん異性と付き合うのを避けて、また核家族の結果孤独と老人が増えた今の時代にこそ、機械でもよいので愛情を欲しいという人は結構いる気がするのである。
しかし、作られた愛情は本当の愛情ではないので、今以上に人づきあいが苦手な人が増え、もっと言うと性交渉さえもできない人間が出来上がってしまうのかもしれない。
とは言え、人間の原動力の一つに間違いなくエロがあるとは思うので、そのために性交渉専用のロボ君なんかもできてしまうとは思うのだが、そうやって人間同士の関係性より、AIを介して人間生活が送られる日が必ず来るだろう。
facebookやLineなどの希薄な人間関係で実際の人づきあいをしない人の増加が、すでに未来の人間の営みが予見されているのではないかと思うのは僕だけだろうか。

ひょっとしたらAIの進化は、人間が本来持つ動物的感情を排除させ、新たな人間を作り出す一歩であり、同時に人間が人間としての感情を失ってしまうという意味において、破滅の一歩なのかもしれない。
そう考えると、未来のAI搭載ロボは、この映画のようなグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである。

 

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映画評:ドラゴン・タトゥーの女

優秀な人が優秀なる力を発揮できる世であって欲しいと、心から願うばかりである

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櫻井よしこさんをテレビでお見かけするといつも優秀な方だなあと思う。
多くの男性論客を前に、女性らしい受け流しと、的確な指摘をされ、またその言葉の端々に感じられる、知性及び政治的に正しい思想や国民を先導する強いカリスマを感じずに入られない。
是非とも政界に入って、アホな政治家を上品にしばきまわしてもらいたいものである。

よく仕事でも女性と男性どちらが優秀か?なんて話になる。
デリケートな問題ではあるので、僕はなるべく女性が優秀と言うようにしているのだが、内心は優れた女性はそれなりにいるだろうし、どうしようもない女性もそれなりにいると思っている。
因みに男性はだいたい似たようなもので、内容にもよるが、仕事の優劣だけでは、誰がやってもそんなに差はないと思っている。
何でそう思うのかは、女性は会社だけに一生懸命になる人は少ないが、男性は会社だけの人が多いからである。
一般的に男性は、会社への傾倒が女性よりも高いため、その分手も抜くこともあれば、
人付き合いだの、会社への帰属精神で点を稼ぐ人が多い。
しかも女性は子どもを生むため、どうしても家庭へ体の半分は持っていかれるわけで、
そもそも仕事に対しての時間の使い方も違ったりするので、男性と同じ土俵で論ずるのもおかしいと思ったりするのである。
世の中の風潮としては、男性も子どもの世話を見ようと言うことになっているので、僕も子育てに参加しようとは思ったのだが、社会全体の構造が古いので、やはり子育ては女性に任せて男は会社一辺倒という方が、何かと生きやすくはある。
何が言いたいかと言えば、とどのつまり男性と女性の優秀さを比べるのは、ライオンとサメがどちらが強いかを論じるようなもので、男性と女性は違う生き物として考えるべきであるということである。

しかし、過去の歴史の中では、女性が男性より優秀であるという時代は少なかったように思う。
女性は大学に進むことも許されず、学問をすること自体恥と見られる時代があった。
18世紀から19世紀までに生きた天才的な数学者のソフィー・ジェルマンは、幼い頃に数学の魅力にとりつかれてしまう。
しかし、親から数学の勉強を反対され、父親は勉強ができない環境にすれば良いのではないかと考え、ソフィーの部屋を暖も取れない寒い状態にし、あまつさえろうそくさえも取り上げ、夜に勉強ができないようにすることで、彼女の学問への意欲をそごうとした。
今の常識なら「なんちゅう親や」だが、当時の社会を考えると、女性が大学に行くなんてことは、そんな生意気な女は一生結婚できず、家庭を築けないと決まったようなもので、親として娘の幸せを考えれば、当然の行動だったのである。
しかし、ソフィーの数学への意欲は消えることなく、当時男性しか入学できなかった大学に、別の実在の男性の名前を騙って入ってしまう。
親に反対され、人並みならぬ努力をし、嘘までついて勉強がしたかったとは、耳が痛い話である。
その後ソフィーは数学者としての道を歩きだした後に、ソフィー・ジェルマン素数を生み出し、かの有名な数学会最大の謎解きだった、フェルマーの最数定理の解読に一役かっている。

女性にも優秀な人がいて、男性にも優秀な人がいる。
こんな分かりきったことを、過去の男性社会では許してこなかった。
突き詰めれば、男性の子供じみたエゴイズムで、長らく女性は機会を奪われてきたのだと思うと、男性がいかに間抜けなのかが立証されているようでもある。
そういう意味では、女性の方が優秀と言えるのかもしれない。

映画「ドラゴンタトゥーの女」は、「セブン」や「ゾディアック」という猟奇物を世に送り出した監督らしい、屈折した人間が描かれた映画である。
主人公の女性は、12歳で父親を殺そうと部屋に火を放ち、23歳の今も保護観察が付く、パンキーな女性であり、体にドラゴンの刺青を入れている。
彼女の武器はパソコンとその思考力、そして獣のような攻撃性である。
非合法に相手を調べ上げ、ハイテク機器と暴力を使って敵を完膚なきまでに叩き潰す。
しかし、彼女の周りには余りにも不条理がはびこり、彼女自身を苦しませる。
彼女はその不条理さから戦うために強くなり、そして賢くなっていく。
その姿は格好よく、何よりも小気味良い。

彼女はその優秀さから社会に適合できず、またその見た目のか弱さから社会に攻撃される。
少女のあどけなさを残しながらも、彼女は強くならなければ自分らしく生きていくこともできない。
過去数多排出した優秀だった女性が、彼女のように社会の目に見えない圧力のようなものに潰されて、その才能を開花させることができなかったのではないかと思うと、なんだかやるせない気分になる。
そう思うと、自分が女性として、またか弱きものとして抑圧された社会と戦い、知恵と獣のような力で敵を倒すこの映画の彼女は格好がいいし、新たなヒーローの出現を予感させる。

ソフィー・ジェルマンは後に、憧れていた歴史に名を残す大数学者ガウスとの文通を行い、ガウスにその実力を認められるが、後にガウス自身が、興味の対象が数論からより高い次元の応用数学に移ったことで 彼女への手紙の返信も行わなくなる。
すっかり自信をなくしたソフィーは、わずか1年も満たないうちに数学を捨ててしまう。
その後彼女は物理学の道を進み、音響学の観点から配慮が必要となる建築物に対し、その素材の弾性体表面の動きに関する、金属の弾性理論の確立に貢献している。
この論文自体は、物理学の評定では満点と言うわけではなかったようだが、彼女の執拗な知への欲求と、才能の豊かさが評価され、この論文は懸賞論文として賞を授与されている。

因みにこの懸賞論文はナポレオンが募集したもので、彼は本当に科学や物理が好きな人だったようである。

国の役人は彼女の死亡証明書を発行する時、「数学者」と呼ばず「年金受給者」と呼んだそうだ。
客観的に見て彼女はフランスの歴史上もっとも知性のある女性の一人と言える。
しかし当時の社会は彼女を認めず、彼女に不遇の仕打ちを行なっていた。
だが、彼女はその仕打ちに対しても、純粋なまでの学問と数学への愛情と、比類なき才能があったため、世に功績を残すことができた。
優秀な人が優秀なる力を発揮できる世であって欲しいと、心から願うばかりである。

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映画評:海賊と呼ばれた男

熱のあるリーダーというものに憧れを抱く

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宮崎駿の終作「風立ちぬ」で、ゼロ戦を作った堀越二郎について描かれていたことで、
近代の技術者の偉大さについて脚光を浴び始めている。
鎌倉時代のよくわからない偉人について学ぶくらいなら、近代の市井の中にあった、素晴らしい人々に光を当てていくのは大変素晴らしいことだと個人的には思っている。
特に戦後の日本を立て直したのは、名もなき多くの日本人たちで、それこそ僕たちのおじいちゃんやおばあちゃんが、今の日本の礎を一生懸命築いてきたことを思い出させてくれ、改めてその感謝が生まれてくるというものである。

思い返せば、僕がまだ幼かった頃の日本の商売人たちは、週に6日労働をスタンダードとし、大きな娯楽もせずただがむしゃらに働いた。
今の僕たちはせいぜい働いて13日連続くらいで、もちろんそれは悪いことでまったくないのだが、単純にそれだけ働くことができたのはどうしてなのかと思ったりもする。
僕なんかはお恥ずかしい話し、残業しただけでもう体が痛んで、心が折れそうになるのだが、昔の人たちは何を見返りに頑張って仕事をしていたのだろう。

僕がまだ若手社員だった時に、富士通池田敏雄さんについて触れる機会があった。
知らない人のために書くと、この人は富士通の社員で、FACOM という今でいうコンピューターの前身である、自動計算器を作った人である。
この人のエピソードで有名なのは、あるアイデアがひらめくと、ずっと考え込んでしまったり、会社に来ないなあと思っていたら、ふらりと会社に来ては結果を渡して、また会社に姿を見せなくなるという、今では社会人失格とも思える行動をする人だったようで、若い僕はこのエピソードに単純に憧れた。
今はそれなりの経験を得て、この行動がいかに難しいかを理解し、いかに自分が凡人であるかを知ることになったのだが、この人へのあこがれは今も僕の底辺にあって、今でも何かに夢中になることを切望している。

昔の人が何故多くの時間を仕事に費やしていたのかを考えると、単純に使命感や責任感もあったのだろうが、多分大きな志があったからだろうと思うのである。
日本があの戦争に負け、しかし戦争に向かっていった理由自体が理不尽なもので、その内なる怒りみたいなものが、日本の底力となっていったのだろうが、僕はやや違う見方を持っている。
僕は当時の日本人自体が、世界に向かってまだ戦争をしていたのではないかと思うのである。

彼らは殺し合いの戦争では負けたが、商売の戦争でリベンジを果たそうと考え、とにかく勝つことに拘ったのだと思うのである。

池田が打ち込んだ計算機は、将来大きな事業の柱となることを確信していたからこそ、彼は外国に勝つため仕事に打ち込んだのだろうと思うし、堀越も世界に完たる戦闘機を作り世界に挑戦した。
その純粋な思いが、異常とも思える仕事への傾斜を生み、そうやって熱を持って費やした時間の多くがあったから、数ある困難をはねのけていったに違いないと思うのである。

今の僕たちが働く意味を考えると、真っ先に浮かぶのは家族の幸せとか、自分のスキルアップという、世界が半径数メートルの世界しかない。
それはそれで悪いことではないのだが、しかし働くという事の理想は、人のためであり、世のためでなければならない。
決して自分の安寧のためではないはずである。
そしてそういった自身を奮い立たせる、大きな使命感を持つことができた昔の日本にうらやましさを感じるのである。

今回の映画紹介は「海賊と呼ばれた男」である。
原作は言わずと知れた百田尚樹さんのベストセラーで、「永遠のゼロ」シリーズのキャストやスタッフがメインで作られた映画である。
戦争を超えて、日本の石油産業を死守するために、主人公は常に戦い続け、権力や利権に逆らうことで、彼らは海賊と呼ばれる。
反骨と貪欲さがバイタリティーの源であり、そこにはただの自尊心だけではない、国を憂う気持ちが見え隠れする。

彼は従業員を家族と呼び、その家族のために死地を超えていく。
油売りという手段でのし上がった彼は、作中で油の獲得に奔走し、最後には独自の方法で油の獲得を行う。
「店主の中で戦争は終わっていなかった」のセリフ通り、彼は油の販売を通し、敗戦を喫したアメリカに立ち向かっていく。
その気概に家族である従業員は粋に感じ、彼に付いていったのかもしれない。

無論実話に基づいたとはいえ、話は作者の意図する考えに左右されていることは間違いない。
また劇中の社員の忠誠心などは物語上の演出であることも理解している。
全員が全員日本のために働く会社なんかはちょっと不気味ですから。
しかし、そういったものを考えたうえでも、どこかで映画の中の主人公のような熱のあるリーダーというものに憧れを抱く部分があり、大儀ある仕事をしてみたいものだという気持ちが、どうしても拭い去れない自分がいる。
これが日本人の魂だと言われれば、光栄ですがすがしい気持ちになるわけである。
多くの日本人にこの心が宿っていれば、日本はまだまだ大丈夫なのかもしれない。

とか言いながら、やっぱり昼間はごろごろしたいなあと思う自分もいたりする。
おやじがトム・クルーズだったら良かったんですけどね。

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映画評:コクリコ坂から

作り手の熱がなければ、それは唯のお話しである

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尾崎豊さんを歌手デビューさせたソニーミュージックの担当者は、ノート一杯に歌詞を書いてオーディションに臨んだ彼の姿勢が良くて、
「ああこの人は何か言いたいことがあるんだろうなあ」
と思い、合格にしたと何かのインタビューで答えていたのを覚えている。
音楽的才能はどうあれ、若さとその情熱に賭けたというところだろうか?
下手な鉄砲打ちの音楽業界ならではのエピソードだとは思ったが、しかし、人に感動を与えようとする人間が、何も主張がないのは確かにどうだろう、とは思う。
勿論、一攫千金を狙い芸術家の道を進むものや、何か格好よさげじゃんとかいって冷かし半分でその道を進むものもいるだろう。
親も俳優だから自分も、というものもいれば、何をやってもダメだが歌だけは、という人もいるだろう。
結局受け手側の僕たちが、そういう人々の作品を観て、聞いて、どう思うかは、その人の熱とは関係がないものだと思う。
しかし、その熱を作品に添加できる人は、きっと優れた芸術家なのではないかと思うのである。

僕は、「どうしても描きたかった映画」という触れ込みがあまり好きではない。
それは、もし僕が映画人であれば、どうしても描きたいモノは山のようにあるだろうなあと思うし、そもそもそんなことを宣伝に使われると、恥ずかしくて顔が真っ赤になりそうだ。
もし自分が作った映画で本仮屋ユイカさんを水着にしなければいけないシーンがあったとして、「ただ彼女の水着が見たかっただけちゃうん」と勘ぐられたりすると、正直外も歩けなくなりそうだ。
まあ、僕は唯のサラリーなマンなのであまり気にしなくてもいいのだが、人に見せる物語である以上、そのような熱のある部分も隠して、物語を追求することが真の芸術家だとは思う。

映画「コクリコ坂から」を見て直ぐに、そんな作り手の熱の低さを感じた。
今さっき製作者の熱の部分は見せなくても良いとは言ったのだが、残念なことにこの映画にはアニメ映画を撮るという熱さえも感じられなかった。
アニメ映画を撮ることとはどういうことかを考える時、やはりアニメでしか描けないものを題材にすべきだとは思う 。
たぶん基本的な考えだとは思うが、綺麗な絵や構図ならば、実物の風景を収めたものの方が、圧倒的に素晴らしい。
そういう意味で、見終わった瞬間に、この映画はアニメでなくてもよかったのでは?と思った。

では内容はというと、舞台は1960年代くらいの横浜で、全共闘の色合いが濃い高校の文化棟の取り壊しに反対する学生たちの群像映画で、原作は確か少女漫画だと記憶しているのだが、イメージする少女漫画らしい恋愛が盛り込まれている。
若いころの薬師丸ひろ子さん辺りが演じるとハマリそうな感じの内容だった。
くしくも先日、東京大学教養学部学生自治会が、全学連と都学連(東京都学生自治会連合)から脱退することを代議員大会で決定したとの報道を見たばっかりだったので、何か最近学生運動ずいているなあ、と思ったのだが、しかし、この内容をアニメを観る世代の子達にこの話しが分かるのかしらんと、いらぬ心配をしてしまった。
僕くらいの中途半端な年齢だと、内容もほぼ分かるので、なるほど物語は面白い。
しかし辛辣に言うと、この映画は、どうしてもアニメにしたい、もっと言うと映画にしたいという熱が感じられない。
たぶん、それは宮崎駿作品との比較から感じるものなのかもしれない。

僕は宮崎アニメのファンである。
未来少年コナン」からのファンで、「風の谷のナウシカ」は今でも年に1回くらいは観てしまう映画である。
宮崎駿さんの物語には、アニメでしか表現できないだろうなあと思う場面が方々で散りばめられており、また、同時に映像の中に鮮明なメッセージが盛り込まれている事が多い。
それはどうしても映画にしたいという監督の強い情熱を観る側に感じさせ、物語をより深く、味わい深い物にしている。
それは多分技術から来るものだけではなく、小さな子供が一生懸命に自分の作った世界観を説明している姿に似ている。
何故太陽を青に塗ったのか。何故、お母さんの絵をお父さんより大きくしたのか。
その意味を物語の端々に込める。
その一生懸命さがあるから宮崎アニメの世界観に引き込まれ、僕たちは深く感動をする。

作り手の熱がなければ、それは唯のお話しである。
映画も小説も、歌も踊りも、選んだ表現方法を十分に活用することで、一つの優れた作品に仕上がる。
しかしそれ以上のものを導き出すのは、どうしても表現したいという作り手の気持ちで、結局はそういった熱を栄養に物語は大きく成長するのである。
考えてみればこの映画は優れた作品なのかもしれないが、どうしてもその前にある偉大な作品群と比較して、見劣りを感じてしまう。
比較されるものが大きすぎて可哀想だなあとは思うが、父の業績を継ぐ子の宿命なのかもしれない。

熱を持ち、それを表現するからこそ、その物語は光を放ち、物語そのものに個性が生まれ、唯のお話は名作になりうる。
熱を持つことが出来るということが、物を作る人にとって、一番必要な才能なのかもしれない。

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