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僕はこんなことを考えている はてな出張版

運営しているエッセイサイトのはてな出張版です。軽い読み物なのでお茶請け程度にいかがでしょうか?

映画評:日本で一番悪い奴ら

稲葉事件

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学生時代カラオケ店のアルバイト先で売り上げを数えると金額が合わないというようなことがあった。
そんな時は当然のことながらレジを打つ人間が怪しいとなるのだが、同僚を責めるわけにもいかず、結局そのまま店に報告することにした。
ある日店の経営をしている不動産屋の社長から電話が入る。
たまたま僕が出ると、最初は優しい口調で「大変なことが起こりましたね」何てことをのたまうのだが、そのうちトサカに来たのか、アルバイトの学生だった僕をののしり始め、対策を取れと、まるで自分の部下を叱るかの如くに電話を切る。
とは言え僕に何かできるわけもないので、結局月日だけ流れ、そんなことが何回か続くと、気づいたら同僚の一人がぱったりと仕事に来なくなったりする。
まあ若気の至りと片づけてしまいたいのかもしれないが、経営者としてはたまったものではない。
なので何とか金を盗まないアルバイトを雇いたいところなのだが、なかなかそうはいかない。
この時は対策らしいものは取れず、僕も就職活動で店をやめてしまったのでよくは知らないが、その後しばらくして店はコンビニに代わっていた。

不正というものは多分人の良心に頼っていくだけでは完全にはなくならないと思う。
特に金銭や色恋については、どうしても欲というものが出てしまい、良心が働かなくなるケースがあるようだ。
例えば金を盗むという行為について完全になくすためには、そもそも金を盗めなくするという事を徹底しなければ難しいのではないかと思うわけである。
1950年代、米国の組織犯罪研究者ドナルド・R・クレッシーと言う人が体系化した「不正のトライアングル」によると、不正が起こる起因要素に、「動機・プレッシャー」「機会の認識」「姿勢・正当化」があるそうだ。
簡単に言うと不正が起こるときには、まずは動機が当人にあり、当人がその不正を働く環境下にあり、且つその正当な理由を当人だけが持っているということらしい。
例を挙げると、ある男が一生懸命仕事をしているが満足な給料をもらえていないとする。
ある日男の同僚が出世をするのだが、彼はどう見ても自分より劣る人間で、どうして自分より評価が高いのか不満を持つようになる。
経理担当だった男はおりしもそういうストレスから夜のお店に通うようになり、金を散在していた。
そしてこう思うようになる。
「自分はこんなにも尽くしているのに、満足な評価を得られず、遊ぶ金にも困っている。これはおかしい。
ちょっと会社のお金を借りて遊興費に使うくらいは許されるのでは?」
そして男は不正経理に手を染めることになる。

ここからわかるように不正というものは、人のエゴイズムから生まれ、その機会を得た時に起こる。
エゴイズムを消し去ることは不可能なので、機会を無くすことしか防ぐ方法は無いのである。
例えば僕の仕事でもあるIT関連では、ITによる情報持ち出しなどのリスクは防げないと考える。
そのためログなどで、誰が何をやったのかが分かるようにしておき、何かが起きた時にはちゃんと提示できるようにすることで、不正の抑止を行う。
簡単に言うと情報は盗めるが盗んだ人がすぐにわかるようにしていることを、機会を持つ人に伝えておくのである。
ばれるとわかっていることをする馬鹿は少なくともIT業界にはいない。
人はばれる不正方法を行うよりは、ばれない不正方法を考える人が多いので、ばれない不正方法を完全に遮断し通知することで、大きな抑止力とするわけである。
ITの発達はいずれはすべての情報をからめとり、こういった不正が起きにくい環境を作ることに成功するだろう。
とは言え、人の不満やフラストレーションが不正の起因になっている事実を知っておく必要があるだろう。

という事でお堅い内容で始まった今回の映画評は「日本で一番悪いやつら」です。
稲葉事件という実話に基づくフィクションという事で、題材は警察による不正捜査である。
主人公の警察官は、正義のためと暴力団とかかわりを持つようになり、自分の成績のために銃の密売を行い、やがて薬の密売にまで手を染めてしまう。
映画は昭和やくざ者の雰囲気を持っているため、警察官を観ているのかやくざ映画を観ているのかわからなくなるのだが、実話に基づくということを考えると若干背筋が凍る映画ではある。
映画の中の主人公は、出世に対する欲(動機)と警察という立場を生かした夜の街の支配(機会)、及び世の中の暴力団や銃摘発への後押し(正当化)を得ることで、享楽的な思考で悪に手を染めていく。
しかし、その行動に悪への後ろめたさはない。
寧ろ誇りさえ持っているように見えなくもない。
正に不正のトライアングルが警察という組織で特殊な組織犯罪として進められているのである。
これが全国の警察で起きているとしたら、この映画はホラー映画である。

子どもの頃に探偵物語という松田優作さんが演じていたドラマを見ているときに、刑事役でこわもてだった成田三樹夫さんを観ていたおやじが、「刑事もやくざも変わらんからな」とつぶやいたのを憶えている。
実際にそうだとしたら世も末である。

僕はこんなことを考えている

映画評:メランコリア

明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたは リンゴの木を植える

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地球滅亡が熱い。
マヤ文明が2012年12月を境に、一つの区切りを迎えるそうで、終末論者はこれを地球滅亡の日と宣う。
そんなにも終わりたいものかねと思ってしまうのだが、この根拠は薄い。
そもそも終末論自体、そのほとんどが世界が滅びる日を説くものではなく、一つの時代が終わり新しい世界の幕開けを謳うものが多い。
終末論を考えるとき、同時に宗教を考えるわけで、宗教の目的は救済にあるため、
終末思想は、苦しい現在の状況が何故かの問いに対し、審判が下り悪しき者たちは滅び、神の存在する美しい時代がやってくるというものが多い。

この考えが終末=世界の終わりに結びつき、何だか怪しげな空想を生み出してしまっているのだろう。
確かに新しい時代と言われても、何となく良さげには聞こえるが、学のない僕のような人間にとっては、「新しい時代?それツエーのか?」と思うくらいで、正直ピンとは来ない。
そもそもこの思想が生まれるためには、宗教が積み重ねた根底となる思想があって、
例えばキリスト教なども、大きな節目にキリストの復活というものがあり、復活したキリストが救世主として世界を新しい秩序に導くというものであることにたぶん大方意義はないと思うのだが、この救世主思想はそもそもユダヤ教の中にあったので、大半の人が「キリストの復活=世界を救済する」という考えに容易にたどり着けたのである。
突然降ってきた考えではないのである。
つまり人が理不尽に終末を迎えるのは、人が悪しきものであって、同時に新しい時代を待ち望んでいる人がいるからであって、そう考えると些かご都合主義的な気もしないではない。

マヤに話を戻すと、マヤ文明にはそもそも歴史は繰り返すという観念があって、マヤは優れた天文学的なアプローチとして、歴史の切れ目を計算しただけで、特に地面が割れたり、大干ばつが来るといった予言をしたわけではない。
要は暦の上で2012年が一つの区切りになるよ、というだけのことで、それが世界が滅びるという話かどうかは、当時の宗教的な考えに立たないとわからないのである。

古代の人々にとって宗教は大切なもので、それは時に現実の意味や、死の恐怖からの回避を語ってくれる。
現代人は恵まれ、科学を信じ、心の機能を忘れかけているので、心の力というものを少しおろそかにしているが、昔の人は今よりもっと思想を持つことで心が強くなり、それが苦しい現実を生きる糧になる。
終末思想が新しい未来に向かう希望だったのは、想像に難くない。

では、実際に終末は来ないのか?
しょうもないことを言えば、今週末には来るのだが、そんなことを書くともうこのエッセイを誰にも読んでもらえないので真面目に考えると、当然「終末は来る」のである。
それはノアのような大洪水かもしれないし、パンデミックによる死滅かもしれない。
過去地球は、恐竜と言う生物の頂点を、隕石によって失っている。
たまたま隕石だったから、氷河期が来たくらいで済んだのかもしれないが、これがもし惑星だったら。
有名な話だが、2004年にアポフィスという公転周期が323日という地球に結構近いところをぐるぐるしている、小惑星が2029年に地球にぶつかるという話が盛り上がったことがある。
一方、こちらはあまり知られていないようだが、彗星以外に小惑星と呼ばれるそこそこの大きさの星は、意外と太陽系の中に多い。
この内のどれか一つが、ある日地球にぶつかったら、何てことを想像すると、終末論も少し現実味を帯びてくる気はする。
そもそも彗星が接近するなんて話はよく聞くし、ハレー彗星は何回も地球をかすめている。
1910年に接近した時は、ハレー彗星の尾が地球をかすめるということで、タイヤチューブが売れたそうだ。
何でも彗星の尾には有毒なガスが含まれていて、ハレー彗星が近づくと地球に毒ガスが充満するというデマが流れたからだそうだが、成層圏を越えて降り注ぐ毒ガスって、何だかすごい話で、中々の終末論に感じる。
ほぼ同時期の1908年には、ロシアのツングースカ大爆発と言われる、上空で何かが爆発し、半径30キロに及ぶ森林が炎上、倒壊したという事件も起きている。
原因ははっきり分かっていないが、小型の彗星が何らかの問題で爆発したと考えられており、衝突による大惨事は、映画だけの話だけでは無いようだ。

映画「メランコリア」は、地球の数倍ある惑星が、地球にぶつかる話である。
「元祖天才バカボン」のオープニングバリの衝突である。
映画「ディープインパクト」も目ではない、衝撃の規模である。
しかしこの映画はその最も大切な部分に触れず、結婚式を挙げる女が、デカダンスな思想で結婚式を台無しにしたり情緒不安定に泣いたり、裸で月夜に佇んでみたりと、かなりメランコリーなのである。
まあ、一言で言えば呑気なわけだが、この呑気さが物語を美しいものにしている。
実際に映像がなんというか絵画的というか、芸術性が高すぎて、観ているこちらも緊迫感はそんなに感じない。
物語も二部構成だが、一部と二部では話はつながっているが内容が随分と違う。
半泣きで「エレーヌ」と叫びながら花嫁を教会でさらった時と、さらったあとに乗り込んだバスの中くらいテンションが違う。(なんのこっちゃ)

終末とはかくも普通なものなのかもしれない、と逆に感心してしまったりする。

僕は終末の日に何をするだろう。
俗的な考えを思うのだが、やっぱり僕も最後はゆっくりと家族とそれこそ普通の日を送るのかもしれない。
逆に、どこにも逃げられないのであれば、まあ諦めもあっさり付きそうだ。
開高健さんの言葉を借りれば、

明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたは リンゴの木を植える 

心境である。
実際に経験しないとわからないが、たぶんそんなものだろうなあと思う。
最後にメランコリアの美しい、地球を飲み込む姿が見られるだけ、ひょっとしたら幸せなのかもしれない。

僕はこんなことを考えている

映画評:サンキュー・スモーキング

正しいということだけでは、悪いものを排除できないことがある

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最近の映画では、タバコを吸うシーンが減ってきているそうだ。
理由はご存知、嫌煙ブームによるものである。

昨今の嫌煙の流れは、かつての魔女狩りさながら、悪者探しに窮しているかのようで、
タバコ=害悪のような風潮が蔓延している。
その勢いはもはや大麻マリファナと肩を並べる勢いである。
嫌煙活動の急先鋒は、これもご承知の通りアメリカである。
アメリカでは毎年様々な場所で、タバコ会社を相手に訴訟が起こされ、時にタバコ会社が派手に負けている。
訴訟内容のほとんどは、長年の喫煙による健康被害である。
僕なんかは自分が勝手に吸っといて、と思ったりするのだが、タバコには常習性も確認されており、それを理由に裁判を仕掛けているらしい。
要は、中毒になって体も悪くなるものをどうして販売するんだ、と言う論調である。

こういった嫌煙運動の論調を見ていくと、どうしても感じるのは、宗教が背景にあるような気がしてしまう。
推測だが、アメリカ人の、特に聖書に重きを置くバプテストの人々なんかが、タバコを体内に入る悪魔として捉え、その常習性からタバコは堕落の象徴として排斥運動をしているのではないだろうか?とゲスの勘ぐりをしてしまったりもする。
そこに政治が絡むため、タバコを擁護するロビイストを悪として、自分たちは清教徒革命さながらの戦いでもしている気になっているのではないのか、などと思うのは少し行きすぎだろうか?
それくらい、タバコを吸う人への差別が激しいように思うのである。

一方でタバコに関わる団体や、タバコ農家や大手メーカーなどの作り手もタチが悪い。
アメリカのタバコ会社のタチの悪さは、ラッセル・クロウ主演の映画「インサイダー」でも観ることができる。
タバコ会社は長年、タバコによる健康被害の状況を隠し、寧ろ良い情報を流し、国民または国を欺いてきた。
映画を観ると嫌煙の盛り上がりは、なるべくしてなったと言えなくもなく、だったらタバコなんぞは売らなければいいのにと思ったりするのだが、政治的にはやはりタバコの税収が大事のようで、タバコに関連する全てを潰そうという考えは、どうやらないらしい。
根拠は1998年にアメリカの46の州政府が、タバコ業界5社を相手に、医療保険への補助金として支出したお金の中の喫煙による治療に使った分を、タバコ業界に支払うよう求めた裁判を起こし、和解金25兆円の判決が出ている。
この訴訟は、判例的にタバコの賠償問題が取り沙汰された後なので、言わば国が勝ち戦にのぞんだ訳だが、これによりタバコ業界は、数十年の分割支払いで和解金を払うことになり、結果タバコの値上げにつながり、より顧客離れは進んでいく。
販売個数が減るんなら税収が減るじゃんと思うのかもしれないが、政府が巨額の医療費の肩代わりをさせると言うことは、つまりはタバコを作り続け、和解金を支払ってくださいね、とタバコ会社の存続を担保した形を作ったとも言え、
結果2012年の現在もタバコはなくなることなく売られ続けている。

では、タバコは本当に害なのか。
昔、長寿の泉重千代さんがインタビューで長生きの秘訣を聞かれ「タバコ」と答えたとの話を聞くが(真偽不明)、実際の所タバコは本当に体に害なのか。
一般的にタバコを吸うと死亡リスクが高まると言う。
また肺がんや脳卒中などの、生死を問う病気にもなりやすいのも理解できる。
女性は出産にも影響すると言われれば、確かにそうかも、と思う。
たぶんタバコは相当に体に悪いのだと思う。それを否定する気は毛頭ない。
タバコについての細かなことは、もっと調べて多分別のエッセイに書くので、ここでは割愛するが、はっきりしておきたいのは、死亡リスクが上がるだの、罹病率が高くなるだのは、実はどうでも良いことで、例えば浮気をする人は勝手に奥さんと別れればいいと思うし、体中ピアスをあけて、破傷風的なもので死んでしまうのも、ああ気の毒にとは思うが、別にどうとも思わない。
本人が良かれと考えてやっていることなので、それこそ知るかである。
僕が思うタバコの害悪はただ一点で、タバコを吸う奴がいると、その空間が臭くなるとか、飯がまずくなるとかの、吸わない僕のような人が不快に思うところでの喫煙はとても迷惑なので、吸ってもいいけど不快感がないような方法を考えてさえくれれば、副流煙などの他人に健康被害をもたらすという問題も含めどうでも良い。
寧ろ、タバコが政治の道具として利用されていることで、他にも銃だの酒だの車だの、タバコのように間接的ではなく、直接的に人を死に至らしめるたり、中毒性がはっきり認められているにもかかわらず、タバコ自体を糾弾していくのは、何だか間違いのような気がしてしまい、判官びいきの関西人の僕としては擁護したい気持ちになる。
そもそもタバコはストレスを減らし、会社ではコミュニケーションの手段ともなり、なによりタバコ時間の間は仕事をさぼれる。
一利もなく百害しかないものではないと思うし、タバコを吸う人は別に悪魔に魅入られているとも思わない。

映画「サンキュー・スモーキング」は簡単に言ってしまうと、今回の僕のエッセイのように嫌煙運動を否定し、タバコの販売促進運動を、口八丁で繰り広げる、タバコのPRマンの映画である。
男は口先だけで、嫌煙ブームを好煙ブームに変えようとする。
物語の男は軽薄かもしれない。
タバコの問題は言い換えれば、タバコを吸う人と吸わない人の違いによる価値観の違いから端をなし、諍いの種が芽を出そうとしている。
タバコ会社がやるべきことは、共存に向けて人に迷惑にならないが吸うと十分に上手いタバコを開発すべきで、政治家を買収してロビイストを増やすことではないだろう。
悪の正体も突き詰めれば、より大きな悪にぶつかることがある。
たががタバコだが、色々な思惑があって今の現状があり、その裏には多くの利権と嘘が紛れている。
その背景が悪であり、実はタバコ自体はそこまで嫌わなくてもいいのではないかとさえ思う。
タバコの問題を見ていくと、社会の中には良い悪いでは決められないものが確かにあって、正しいということだけでは、本当の悪いものを排除できないことがあることを思い知らされる。

どうせ外に出れば紫外線だの、排気ガスだの体に悪いものは山ほどある。
タバコが害悪であると叫ぶよりかは、タバコとの共存を考える寛容さがほしい。

僕はこんなことを考えている

映画評:トゥルー・ロマンス

ビートを刻む音楽のように小気味よい

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世の中には名言、名台詞がある。
映画や物語、またはその人を知らなくても、物語の中の台詞や、その人の残した言葉なんかは知っていたりすることがある。
例えば本エッセイは映画のことが主題なので、映画の名台詞を考えてみると、少々古い映画だが、ハンフリー・ボガード主演の「カサブランカ」が名台詞の宝庫として思い出される。
まあ昔の映画なので、また映画の内容もハードボイルド(死語)なので、「君の瞳に乾杯」だの、「俺の涙は雨が洗い流してくれた」だの、今聞くと少しだけだが鼻につくものが多い。
最も有名な台詞では、物語の終盤のシーンでイングリッド・バーグマンとのやり取りのセリフがある。

バーグマン:「夕べはどこにいたの?」
ボギー:(ボガードの愛称):「そんな昔のことは覚えていないさ」
バーグマン:「今夜、会ってくれる?」
ボギー:「そんな先のことはわからない」

もうヒューヒューものである。
当のセリフの本人、ハンフリーボガードは、タフガイとして活躍した銀幕のスターだが、画像を見る限り低身長で、相手役の大女優バーグマンが175センチ超あったため、厚底のブーツをはいて本シーンを撮ったそうだ。
僕も何本かボギーの映画を観たが、公称177センチは怪しい。
贔屓目に見ても170センチ前半と思われる。
それでもボギーは素敵である。
必ずしも、格好いいセリフをいうのが、おっとこ前でないといけないというわけではないが、やはりこういうセリフは、ボギーのように、それなりの見た目の人が言う方が良いように思う。

名言の多くは物語の中にあり、そのほとんどが作家が拵えた言葉である。
その分その名台詞は、幾度も推敲が重ねられて、精錬されたものが多いように思うのだが、一方で、自らの生を全うせんとした人の心底から吐き出した言葉なんかは、物語で語られる名言とは違う、美しさや迫力のようなものを感じることがある。
特に遺言や弔辞など、その人の全力たる言葉や、苦しみや悲しみの果てに拾い集めた言葉には、荒いところはあれど、言葉の力に圧倒的される事がある。

これも少し古いが、マラソンランナーの円谷幸吉さんの、「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました」で書き始める遺書は、川端康成が褒めたような文学的な美しさや、どこかスポーツマンらしい清涼感さえ感じる、韻を踏んだ言葉の旋律の美しさを、精一杯生き抜いた人の末期の言葉として読むと、なんだか胸が詰まる。
最近だと、「天才バカボン」などの名作を世に出した、昭和の大漫画家赤塚不二夫先生の告別式で、何も書かれていない手紙を前に一点に弔辞を読んだ姿が記憶に新しい。
「私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。」で閉じる弔辞は、ほぼ何も見ずに(見ているふりをして)ソラで仰られたようで、特に故人を慕い、同時に自分をこの国のコメディアンとして大きくしてくれた大恩人に送る最高の言葉に続く、タモリさんらしい締めくくりの言葉、「合唱」が、よりグっとくる。
色々な思いを詰め込んだ言葉の後にフイと引き離す、タモリさんの人となりがよく出ていて、言葉の力を改めて思い知らされる。
知らない人はググッてみてください。

話は変わるが、映画「トップガン」で世にトム・クルーズという大スターを送り込んだ監督が、橋から身を投げて自殺してしまった。
2012年8月19日のことである。
メジャー監督らしく、作った映画の一覧を見ても観た映画も多く、世界中にファンがいたことは想像に難くない。
本当に残念である。

僕はこの訃報を嫁に聞いた時に、直ぐに彼の作った映画「トゥルー・ロマンス」を思い出した。
僕が学生だった頃に封切られたこの映画を、当時付き合っていた女の子と観た。
記憶が正しければ、当時「レザボア・ドッグス」というマフィア映画で一躍メジャーに名を上げた、オタク青年のクエンティン・タランティーノが脚本ということで話題になった映画で、ビデオ(1990年代はDVDではなくビデオが主流)が出るとすぐに、バイト先のビデオ屋で借りて観た。

映画の内容は当時としてはテンポが速い運びで、物語は千葉真一の映画を封切る映画館で知り合った娼婦と、一生レベルの恋に落ちたコミック・ショップに務める若者が、彼女のポン引きを殺し、大量のコカインと共にマフィアからの逃避行を行うというものだった。
とにかく出てくる奴はたいてい悪くて、因みに主人公もいろんな意味で結構ワルい。
享楽的とも言えるストーリーの中に、今では知れた著名な俳優陣が脇を固める。

元祖ちょい(ちょい?)ワルオヤジデニス・ホッパーのオヤジ役
本当に人を殺しているとしか思えない顔のクリストファー・ウォーケン
昔本当にやっていただろう、ポン引き&売人のゲイリー・オールドマン
そんな使い方でいいのか、瞬殺されるサミュエル・L・ジャクソン
テレビ見るだけだけどやっぱり格好いい、完全ちょい役ブラッド・ピット
そしてジム・モリソンだけじゃないぞ、ヴァル・キルマーの扮するプレスリー

この映画は、物語が急展開するローラーコースタームービーの新種であり、映画に散りばめられたセリフの一つ一つのキレ具合や、キャラクターの奇抜さは、映画そのものよりかは脚本の評価が高い。
先に述べた「カサブランカ」のように、後世に残る名言のようなものは少ないが、しかしその台詞の一語一語は、配役のキャラクターを表す上でとてもインパクトがあり、ビートを刻む音楽のように小気味よい。
確かに脚本が相当に面白いのは、素人目でもわかった。
しかし、立ち返ってこの映画を考えるとき、面白い脚本がそのまま優れた映画なのであれば、映画は小説や脚本に勝てないことになるし、そもそものこの映画自体が持つテンポの良さや、配役のキレ具合を、脚本が良いということだけで最高のものにすることは出来るのだろうか?
しかもタランティーノは、脚本のラストを書き換えたトニーに対し腹を立て、クレジットから自分の名前を外してくれと言ったというエピソードもある。
いくら流行作家とは言え、重要なラストシーンを周りと共に納得いく仕上がりにしていくこともできないタランティーノに、これだけの名うての俳優を使うことが果たして出来たのか?と考えると、後の作品を観る限り可能だったかもしれないが、この映画ほど配役の個性を吹き出すことは難しかったように思う。
そもそも映画は、脚本だけで作るものではおそらく無い。
映画の評価は、脚本の世界観をどこまで映像に投影させるかで、名言を生む要素と同じように、幾度の推敲に加え、言葉の力を生む背景をしっかりこしらえてやる必要がある。
そういう意味では、この映画はやはり、天才脚本家ではなく、稀有な監督であるトニー・スコットが作った、最高のエンターテイメントだと言える。

トニーの監督としての偉業は、俳優の個性を引き出す力に有り、また引き出すに足る俳優を見つける力にあるのではないだろうか?
その安定した映画人としての実力と、また一人安定的に面白い映画を作ることができる監督を失ったことに、悲しみを覚えた。

ご冥福をお祈りします。

僕はこんなことを考えている

映画評:わたしを離さないで

観る側がどう受け取るかで、この映画を現実には起こりえない、ただの物語にしてくれる

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楽しかった連休明けに会社に行くと、ああやだなあ、誰か代わりに行ってくれないかなあ、とよく思う。
子供か!と思うかもしれないが、思うのだからしょうがない。
上司に言ったら、「ずっと休みでもいいよ」と優しく言われそうなので、頑張ってスーツを着るのだが、ああ、パーマンコピーロボットがあればなあ、と思うことがしばしばある。

鼻を押すだけで自分のコピーが生まれ、しかも言うことをよく聞く。
昔小学校の頃、双子だったら交互に学校に行って、学校に通うのも半分でいいのになあと本気で考えたことがあるが、双子だと相手が言うことを聞かないので、多分お互いが学校に行きたくないので喧嘩になるだろうが、コピーロボットなら「アイアイサー」の掛け声で、嫌なことを引き受けてくれる。
しかし、その従順だった自分の分身に逆に支配されてしまうなんてのは、SFでよくある手だ。
この点コピーロボットは、鼻を押すとリセットされるので、抵抗しても鼻を押せばいいので、支配の心配も無い。
藤子先生はすごいロボットを考えるものだと思ったものだが、現実にそんなロボットができればそれこそ人類の英知であり、その知恵の結晶をサボリに使う事自体ダメなので、多分本当にコピーロボットができても、僕のような人間には触れることもできないだろう。

一方で現実世界ではクローン技術なるものが既に哺乳類の複製に成功しており、有名なのは1996年にイギリスで作られた、羊のドリーだろう。
ドリーは成体の体細胞を用いて生まれたはじめての哺乳類のクローンで、その遺伝子は、細胞を提供をした羊とほぼ同じだというから、文字通りの複製である。
このクローン羊は、その後普通に生殖をして、子どもを生んでいるそうで、生き物の根源である繁殖をクローンにも出来ることが分かっている。
しかし、物言わぬ動物の話なので、人間を複製した場合、複雑な脳機能まで同じになるのかという問題や、倫理的な側面から人類に応用するのは科学の力だけでは前に進みようが無いように思う。
現在は移植臓器の作成にとどまっているようで、クローン技術は再生医療の分野で期待されている。

では、もしもこのクローン技術が人間に応用され、クローン人間が出現し、このクローン人間そのものを再生医療の道具として社会があったら?
映画「わたしを離さないで」は、クローン技術と再生医療という現代のタブーを根源とした物語である。
倫理観糞くらえで、人間様に尽くすクローンをまるで魚を養殖するかの如く、ひとところで飼育し、成熟するとその部位を再生医療で使用する。
提供と呼ばれるその行為は、数回にわたり、それこそクローンが死ぬまで続けられる。
「おおなんちゅうことを。神様」と思う人もいるだろうが、人類は人間以外の利用できる動物に対し、ほぼ同じような行為を行なっている。
食に対しては、鶏や牛は狭い敷地の中でただ食肉になるために生きている。
実際の家畜の状況を知れば目を覆わんばかりの現実もあるのだが、僕たちはスーパーで並ぶ肉しか見ないので、その肉がかつて生き物だったことも忘れかけている。
人類は「生命を利用する」と言う一点においては、いつ人間を使用した再生医療に踏み出してもおかしくないと思うのは僕だけだろうか?

「わたしを離さないで」は、そう言う現代社会の生命の養殖の現実を鑑みると、恐るべきリアリティーを持っているが、しかし善人である大抵の人からすれば荒唐無稽な物語である。
人のエゴと人の気高さを天秤にかけた時、僕は人は気高い生き物であると思いたいが、
同時に人は区別をする。
人類の歴史の中で、差別が比較的少なくなってきたのは、まだほんの数十年しか経っておらず、差別が完全になくなる日は多分来ない。
人は区別をすることで、自分とは違うと考え、自分とは違うものを排斥する。
これはたぶん本能ではないかと思う。
そもそも怖れや、虚栄心や、自尊心や、その他なんやかやが合わせって、区別が生まれると思うが、区別が差別を生み、差別が支配を生む。
区別を繰り返してきた人類の歴史を知るからこそ、この映画にリアリティーを感じるのかもしれない。

同時にこの映画には愛が描かれている。
それは命を保つための愛だろうか。それとも短い人生の中に生きがいを見出すための愛だろうか。
それとも人間がその根源に持つ慈愛に満ちた愛なのだろうか。
その答えを観る側がどう受け取るかで、この映画は現実にも、空想物語にもなりうる。

 

僕はこんなことを考えている

映画評:ステップフォード・ワイフ

支配するということは、結局壊すことで、分かり合うということのほうがいくらか建設的である

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休日になると比較的子どもが多い所によく出かける。
そういう所は当然のことながら、子どもがはしゃいで相当にうるさい。
うるさいだけならいいのだが、子どもはよく奇声を上げる。
しかも何の前触れも泣く奇声を上げるので、瞬間殺意を覚えたりする。
最初は迷惑だなあ、躾くらいしとけよ、と思うのだが、幾日か重ねると、どうやら奇声は躾とは関係なく発するらしいことが分かり、徐々に腹も立たなくなってくる。
らしいと言ったのは、特に奇声を上げる子に何故奇声を上げるのかを聞いたことがないからで、しかし、こうランダムに奇声を上げる子をみかけると、どうやら子どもは何らかの理由で奇声を上げるものらしい。

奇声を上げたり、急に物を投げてみたりと、子どもは得てして、理解できない行動をするものではあるが、こういうものは日本では虫が起こすものだと考えられていた時代があった。
特に乳幼児の異常行動については、東洋医学的なアプローチでは、疳の虫という虫の仕業ということで、その治療法も変わっている。
粗塩で手を揉み乾いた布巾などでキレイに塩を拭き取る。
そうすると指先にほのかに白い繊維状のものが出てくるそうで、それが疳の虫というわけである。
どうして指から出るのかは不明だが、僕も実際にやってみたが、何となくそんなものがあるような気がする程度だった。
昔の人の想像力のたくましさを感じる話ではあるが、欧米ではこの癇癪を脳科学の分野で解決をしようとした時代があった。

20世紀の中頃に、ロイコトームという長いメス上のもので前頭葉の一部を切除することで、荒っぽい性格の人が穏やかになるという、精神外科手術が流行した。
ロボトミー手術と呼ばれるその技術は、激越性うつなどの難治性の精神疾患患者に施術され、一時は効果的な手術とされるが、人格変貌などの重大な副作用が確認され、また倫理的な指摘もあったのか一気に廃れていく。
よくわからない精神疾患に対する対処が、漢方に由来するアジアとロボトミーに発展する欧米と比べると、何となくだが、何事にも間接的にかかわりを持とうとする東洋人と、直接的なかかわりを持とうとする欧米人の考え方の違いのような気がして興味深い。
それにしてもメス一本で人格が変えられるのは、人間が大きな肉人形の中の小さな脳が作り出した世界に踊っていることがよく分かり、人類の根源的な生存目的に疑問を持ってしまう。
「われ思う故に我あり」もメス一本で思わない人に変えられてしまうのだから、心底ゾッとする話である。

人の精神世界は複雑で、脳の一部を削ったからいいというものでも、なんだかわからぬ虫を取ってしまえば治るというものでもない。
無論、近い将来、脳科学の進歩で脳機能の全てが理解され、脳を操作することで生命を支配する時代が来るかもしれないが、今は時間をかけて、観察することでそのデータを取り、パターンを体系化することで、対処方法を見つけるしかない。
奇声を上げる子どもたちに対しては、ただ気にしないことしか、今の僕には術が無いように、頭ごなしに押さえつけてやめさせることは、何か別のものを抑制している気がして、なんとなくダメな気がしてしまう。

「ステップフォード・ワイフ」という映画を観ている時に、ロボトミー手術が頭を掠めた。
実際の映画のオチは、超カルト的だったのだが、映画の中に香る人間の隷属化を匂わせる内容は、どこかロボトミー手術に似た寒々しいもので、観ている最中に何度も嫌悪感に襲われてしまった。
映画自体に嫌悪感があるのは、人間のエゴスティックがむき出しになっている点で、映画に横たわる支配的な考えは、そのまま欧米人の支配の歴史に符号する。
歴史を盾に差別をするつもりはないが、欧米人的な考えの根本に弱いものへの徹底的な弾圧があり、他国を支配する歴史が少ない日本人には、不得意なテーマなのかもしれない。
しかし、なんとか我慢して映画を観ているうちに、少しずつこの映画には支配するものについての嫌悪感や、揶揄を作り手が持っているような気がしてくる。
映画の最後を観れば言いたいことは何となくわかるとは思うのだが、その顕著な例として、余りにもお粗末すぎるラストシーンがある。
いくら男性の思うままの女性がいいと思っても、そんなことするか?というオチなのである。

物語は同じ様なひらひらを付けたいかにもお姫さまのような出で立ちの妻たちが、スーパーで楚々として買い物をするシーンで終わる。
そのカットは随分とバカバカしく、際立って違和感がある。
その分別のない結末が、逆に支配する愚かさをあざ笑うように写り、何となく救われた感じがした。

支配するということは、結局壊すことで、分かり合うということのほうがいくらか建設的である。
しかし、分かり合うには時間がかかる。
かかりすぎる。
だから支配もせず、分かり合うこともせず、放棄してしまう。
放棄することは何も産まない。
しかし、実際の所僕らは、多くの物事を、上手くいかないことを放棄してしまっていないだろうか?

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映画評:カンパニー・メン

社会に必要とされるとはどういうことなのか?と言うことを改めて思い直させる映画だった

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不景気である。
周りを見ても、生活をしていても不景気だなあと思う事象はごろごろしている。
外を歩いていても、お金でも落ちてないかしらんと、下を向いてばかりいる。
「やったあ、お金」と思って拾ってみると、なんだがキラキラ光るボタンとかだったりする。
きっといつかは良くなると、そのいつかを待っているバブル世代で設けた50前後の方々は、待ちくたびれて、ろくろ首状態になっているのかもしれない。
良い時もあれば悪いときもあるのは理の当然というやつだが、これだけ長く悪い時が続くと、もう日本が復活することはないのかもしれないと、若干諦めモードに突入しているようだ。

しかし、近代日本には40年サイクルで転換期を迎えるというジンクスみたいなものがある。
例えば明治維新(1868年)が起きて日露戦争の大勝利(1905年)までが大体40年で、日露戦争から大東亜戦争の終結(1945年)までが同じく40年。
戦後復興から経済の絶頂だったバブル期の終わり(1989年)までも約40年と、ぴったりとは言わないまでも、国の転記とも言うべき出来事が40年サイクルで成されている。
これは驚くことではなく、「景気循環論」と言う考え方があって、イギリスの経済学者が、自国の経済変動が10年から11年周期、または54年から55年周期程度で恐慌や食糧難に見舞われていることを発見し提唱した理論で、気象や科学、天文という科学的な見地から経済活動を論じる、「物理経済学」というアプローチをして、この偶発性を立証しようと試みている。

よく耳にする「太陽の黒点が株価を左右する」と言うものも、この理論に並列しており、要約すると、太陽の黒点が多いときは景気が良くなり、少ないと悪くなると云う事象が確認されているとうことである。

黒点とはそもそも9.5年から11年毎に増減を繰り返しており、その発生原因は太陽の磁場だと言われている。
学校で習ったと思うが、太陽というものは光の球であり、正体は超高温の水素である。
水素は超高温になると水素原子から電子が分離し、バラバラの状態になる。
超高温の太陽の中心部では、水素原子4個が融合してヘリウム原子1個が生成される、「熱核融合反応」が絶えず起こっている。
核融合反応は水素原子が、ヘリウム原子になる時に失った質量(マイナス0.3パーセントの質量)をエネルギーに変えて、大きな光を放つわけで、この活動は水素が全てヘリウムに変わるまで続く。
また、膨大なエネルギーの光る球は、自ら回転(自転)することで、その内部に数十億アンペアの電流を作り、これが強力な磁力線を南北方向に生成させる。しかし、ガスである以上均等に回転せず、高緯度になるほどその回転は遅くなり、それに伴い磁力線もズレが生じる。
やがて何重にもずれた磁力線は、互いに反発し、より強いねじれた磁力線を形成し、球の表面に浮き上がる。
このより強い磁力線が太陽の温度のムラを作り出し、黒点群と呼ばれる太陽の表面温度よりも遥かに低い場所を作り、黒く見えるということらしい。

この黒点が人間の、しかも経済にどう影響しているのかは、本を読んでもいまいち理解できないので割愛するが、超巨大スケールのエネルギーを発する太陽なので、ガンマ線など、人体に影響すると思われる可視光線を、当たり構わず注いでいるわけなので、水で出来た人間は、なんとなく影響がありそうな気はする。
本当のところは良くはわからないが、人の営みにはサイクルのようなものがあるのは事実で、太陽のエネルギーが「良い時、悪い時」を生み出しているのだ、
と言われると、何となくそんなものかな?と思ってしまうのは僕だけだろうか?

今回も前置きが長くなってしまったが、「カンパニー・メン」はリストラ映画である。
しかも超巨大企業のリストラ物語である。
映画を観ながら、この映画を誰が好んでみるのかしら、と思ったが、観てみると中々のヒューマン・ドラマだった。
この映画で描かれている、企業経営者の冷淡さや、首切りの実情を実体験の中で見てしまっているため、何だか観るに耐えない感もあるが、自分がそんな毒された世界にいることに気づかされ、また、社会に必要とされるとはどういうことなのか?と言うことを改めて思い直させる映画だった。

僕は黒点が経済に影響を与えているというのは、フリーメイソンが世界を牛耳っている、という説と同じくらい眉唾とは思っている。
しかし、人間のサイクル上、良い時、悪い時は交互に訪れると思っている。
何故なら人は忘れる生き物だからである。
良い時は、自分が頂上のような気分でいるが、そこで奢ることで一気に悪い方に転がり落ちる。
その時初めて自分がいかような人間なのかを思い知ることになる。
会社の中では威張っていたが、やめた途端に就職が無くてあくせくしている人を、何人も観た。
しかし、僕はそれでも良いのではないかと思っている。
浮き沈みがある方が寧ろ人間らしいのではないだろうか?
できれば40年も掛からず、20年くらいで立ち直って欲しいなあとは思うのだが。

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